松本医師の意見書を読みました
Twitterのフォロワーの方から、松本俊彦医師の意見書について意見を求められましたので、読んでみました。
松本医師の意見書による「依存」とは
- 精神依存とは物質への渇望が生じた状態です。
- 身体的依存とは正常な生理現象です。
- 薬物依存の診断には(DMS-4までは「物質依存」、DMS-5では「物質使用障害」)精神依存の存在が必要です。
- 常用量依存は生理現象であって、渇望を伴う「精神依存」はないから、薬物依存の診断の対象ではありません。
- 常用量依存は薬物依存とは異なる病態です。薬物依存と常用量依存は区別して扱います。
- 常用量依存と診断するためには、その他の可能性を排除出来なければなりません。
私の依存に対する考え方
私はこの手の議論にはパソコンに例えて説明します。パソコンはハードウェアの上にソフトウェアが成立しています。ソフトウェアはハードウェアに依存していますから、ソフトウェアはハードウェアを無視できません。ハードウェアに異常があればソフトウェアにも影響を与えます。パソコンメーカーでは、ハードウェアの故障か、ソフトウェアの故障かを切り分ける際に、ソフトウェアを初期化して再設定することで判断したり、正常なハードウェアを1つずつ交換することで、故障を見つけます。しかし、人間はそれが出来ません。
精神医療の臨床では、身体(ハードウェア)的なことは診ておらず、精神(ソフトウェア)的なものを医師の主観で扱っています。個別の診断は、医学界の問題ではなく、その医師と患者の個人的な問題に追いやられています。
身体的な事なら、第三者が後からでも同様に評価できる検査データを用意できるはずです。常用量依存は身体的な事でありながら、裁判所に提出できる検査データとして存在しておらず、概念的な情報と原告の主観、医師の意見書など文章で訴えています。
常用量依存が身体(ハードウェア)依存だとすると、精神(ソフトウェア)依存にも影響を与えているはずで、それを無視することは出来ないはずです。しかし、臨床では精神(ソフトウェア)しか観察していません。現在の精神医療の限界が、松本医師の解釈の発端になっていると推察します。
精神依存の原因は身体依存で説明できるのではないかと思います。何故渇望するかと言われれば、身体的依存があるからだと言えると思います。物理学ではハードもソフトも全て物理です。
言葉は、作った人の道具です。その道具を使う限り、自由に振る舞えません。「依存」一つとっても、相手のペースになっています。精神医療を文学の世界に置いている限り、文学の呪縛から逃れられません。
医師は主観で発言しても信用されるのに、消費者は主観で発言しても信用されません。社会的信用格差が大きい。そこで原告は頼れる医師の意見書を提出しました。医師でも意見が割れるようなことが、臨床現場で行われています。
精神医療は未熟であり、欠陥だらけと言っても過言ではありません。
松本医師は原告を診察したこともないのに、原告に不利な推測が多いですが、それは被告の依頼による結論を導き出すためと推測します。原告も同じことが出来ます。これらの意見をどう判断するかは裁判官に委ねられます。